幸福論

幸せとは何か、生きがいとは何か、これは人間の最大のテーマで「生きる」価値へのテーマです。
是が、宗教、哲学、の主要問題といっても過言ではありません。

「幸福論について語るのは、自分が幸福と思っていない人物が語るのである」と、精神医学者が述べていますが、ある意味当たっているかもしれません。

しかし、釈迦も「生老病死」に「悩み」その解決を、心の探求に求めたわけですから、人間程度の差こそあれ、人生の一時期に「幸福とは何か」を思うことはあるはずでしょう。

釈迦、キリストが到達した、究極の人類の心境は、アートマンとも言われ、
マズローの「5段階欲求説」での、最後の段階の「自己実現」をも超越した、最終ステージでしょうが、その「最終ステージ」は、意外と今、ここにあるかも知れません。

幸福とは何か、は簡単です。
「幸福と感じている心に満たされている状態」です。
どんなに物質的、金銭的、社会的に恵まれていても、その人が「幸福だ」と思わなければ、幸福ではありません。
従い、幸福とは勝れて主観的問題です。

では心とは何でしょうか?、状態とはどのようなものでしょうか?
心は一般的に人間の意識、認識、感情と考えれれています。
即ち前頭前野、大脳皮質で認識されているものが「心」とされていますが、
実はそうでなく、脳幹に心が存在しているのでしょう。
いや脳幹の心は所謂「心」でなく、人間の存在そのものの「実感」で、
意識を超えたところで「人間脳が働いていない状態」でしょう。

では、我々が持ちえる「幸福感」を実感できるためには、どうしたらいいでしょうか。

繰り返しになりますが、幸福は言語脳、感情脳で「感じる」のでなく、
自然脳(フェアリーブレイン)で「感じる」状態と言えましょう。
つまり幸福、安心立命は、言語では表現できない「代物」で、
究極の自然脳作用状態でしか味わえないでしょう。

禅でも、初期仏教でも、ヨガでも、それを言語で伝えようとしていますが、
結局は、みな禅も初期仏教も、「不立文字」と言ったり、「教外別伝」と言ったりしています。
皆さん各々が実感(悟り)しなければならない種のものと教えています。

欲による金銭、名誉、支配などが達成されても、一時は幸福感を味わえますが、
なぜか「満たされない」思いにすぐ包まれてしまいます。
「欲」が支配する大脳(前頭前野、辺縁系)による幸福感は、
所詮結局、「物足りようの思い」でしかないでしょう。(澤木興道曰く)
物(物質)足りる思いとは、金、出世、名声、などは勿論のこと。
一見自然脳の幸福とも思える、煩悩をなくすことも含まれます。

脳幹は、脳生理学的に、「爬虫類脳」とも呼ばれています。
大脳辺縁系は、サルなども発達した感情脳で、人間脳として大脳がありますが、
「生命体」として宇宙の存在としての自己は、その「爬虫類脳」に帰ることでしょう。

純粋生命体としての自己を味わうことこそ、真の幸福、安心立命があると思います。

仏教では、「本当の自分」を見つけることが、本当の幸福であると教えます。
これは言い換えれば、本当の自分とは、
上記「脳幹」だけの自分(意識を超えた自分)であるとも言えます。

皆さんが、「自分は不幸だ」「自分は不満だ」と思っている「自分」は、上記の大脳であり、それは単なる「思考回路」に過ぎず、実は自分ではないのです。
それを「気づいた」(SATIと言います)人間が、安心を得られると教えています。

2006年6月12日、7月19日加筆、10月5日加筆、11月1日加筆

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