文明の発達と人間性の喪失
現代社会は発達・発展して人間の幸福に貢献してきた・・・はずです。
でも現実には、人間の疎外、人間性の喪失に「貢献」しているという皮肉な現状とも言えましょう。
インターネットの発達は、通信の費用を劇的に削減し、
地球の裏側の人々とも、瞬時に、コミュニケーションできるようになりました。
これは自分の世界が広がったのでしょうか?
手書きの手紙・郵便しかなかった昔(つい最近までですが)は、より頻繁に人と会っていたはずです。
今は、パソコンの画面と向き合っている人々が多いです。
チャット、メール、ゲームを忙しく行い、
パソコン画面、携帯画面に一日の大半の時間をつぎ込んでいます。
これは「会話」でしょうか。人間の交流として世界が広がったのでしょうか。
必ずしもそうとは言えない状況でしょう。
商売でも、昔はこう言われました。
「商売したかったら、まず人と会え。会ったら飲め。できればゴルフでもして接待しろ」と・・・。
これは、人間の交流には会うこと、会って会話することが不可欠との意味でしょう。電話では、かろうじて人の息づかい、会話の間、がありますので、人間性の伝達がある程度できます。
メールですと、交流しているかどうかが分かりません。
こうして随筆を今書いていても、どの人々がどのように受け取っているか分かりません。
結局は「直接会って話さなければ」何も始まりません。
現代社会で、人間はその「最終的には会って話す」時間がますます減っています。
パソコンに80時間、携帯メールに3時間を費やしたら、寝る時間、食事、
風呂などの時間を引けば(通勤時間も)、いったいどれくらいの時間が、
「人と会う」ことに費やせるでしょうか?
殆ど 残っていません。
ましてや、ゲームに明け暮れていれば、極端な話、1時間も「会って話す」ことなしに、一日が終わっています。
これが現代社会です。
その生活を、生まれてから20年、30年続けていたら、どのような人格が形成されているでしょうか。
たぶん、
(1)一方的主張をするのはうまいが、相手の意見を受け入れ、対応する能力が育たない。
(2)感情の起伏を抑えられない、キレ易い人格になる。
(3)逆に、無感動になる。
でしょう。
この随筆も一方的です。
飽くまでパソコンとかメールは人間の交流の「きっかけ」であるべきで、
このコミュニケーション手段が「最終手段」となったら、人間性は喪失してしまうでしょう。
2007年10月2日