ニヒリズムと禅と現代社会

高度に情報が発達した現代社会。
強烈な競争社会、物質的幸福の追求の無意味さ、あるいは閉塞感の蔓延。
極端な格差の拡大等々、人々の心は荒みやすい環境です。

人は生きていく間に、時々は誰でも「疲れ果て」たり、
「こんなに頑張っても所詮変わらないや」と嘆いたり、
「ビルゲイツも乞食も同じ人間。墓場に金もっていけるわけじゃなし、
そこそこでいいじゃないか」等々の、ある種の諦観(虚無主義=ニヒリズムとほぼ同義)を持つことがあるでしょう。

ニーチェによれば、ニヒリズムとは人間の精神状態のこと
(思想・信条・主義ということではないという意味=単なる状態という定義は意義深い)で、このニヒリズムにおいては、私たちが取りうる態度は 大きく分けて、2つあるとしています。

(1)全てが無価値・偽り・仮の姿という現実世界を前向きに捉える生き方。
つまり、自ら積極的に「仮の姿」を生み出し、
一瞬一瞬を一生懸命に生きるという態度・精神状態(能動的ニヒリズム)

(2)何も変わらない事態・何も頼れない信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(受動的ニヒリズム)

皆さんが(僕も含めて)しばしば感じる感情としては、
「がむしゃらに働いても、その後には所詮皆年老いて死んでいくのさ。
なんで一生懸命になる必要あるの?ばからしい」
「たとえ成功して、大金持ちになっても、使いきれるわけでないし、
金が幸福をもたらすわけでもない、アップルのスティーブジョブズは凄いけど、
一生懸命働いた結果、癌で早死にしてしまった 無駄じゃない?」
「出世したって責任ばかり増大して、精神的に負担が増えるだけで何もいいことない、それなら楽な仕事見つけて、ケセラセラ。
安倍首相頑張ってね~。僕ら怠け者だけど、生活保護厚くして助けてね~~」

などと考えて、(2)の人たちの結論はしばしば、人生は無意味だからして 、
「働かなくてのんびりしよう」「結婚したって苦労ばかりだから一生独身でいよう」
「いい仕事につけないのは世間が悪いのであるから、生活保護で静かに生きよう」
「仕事はつらいからパチンコして、何も考えないで暮らそう」となります。

でも、そのような人たちも、「時々は」わが身を振り返って、それでいいのか??との自問自答を時々するのですが、あえてそのような人たちは、
その自問自答行為も、精神的に苦労したくないと、いう思いが先行して、
意図的に思考停止して、流されて生きています。

ではそのような生き方を生涯貫いて、その人は幸せを感じることができるのでしょうか?
それは当の本人でしか判りません。
しかも、その本人が死ぬ間際考えることですので、それも我々は分かりませんし、価値も論評もできません。

そのことは以前、『人間探求教学=幸福論』で述べましたが、
そのような人たちの幸福観は判りません。

話をニヒリズムに戻します。

僕も、基本的世界観は、「所詮一人で生まれて、一人で死んでいく」と思っていますので、ニヒリズムと言えばそうですが、ニーチェの定義でいえば①の生き方です。

過去にも禅の言葉を何度か援用していますが、仏教の出発点も、
お釈迦さまが、生老病死の疑問「人はなぜ生まれ、老いて死ぬのであろうか」から始まって、結局は「自分」という存在の(ニーチェとは若干違う意味ではありますが)無価値を説いています。
で、その無を出発点として、無明への戒めをしているわけで、
ニーチェの言葉でいえば、「全てが無価値」であることを認識して、
「一瞬一瞬を一生懸命に生きる」という表現ができます。

禅とニヒリズム(能動的)は、かなりの共通点があります。
「今、ここに生きる」「日日是好日」や「人生は苦(ドゥッカ)である」も無価値、仮の姿、諦観の認識を「踏まえて」前に進む、力強い能動的ニヒリズムといえるでしょう。

現代社会に生きる一人ですが、物欲・出世欲・金銭欲にまみれて、
無価値が理解できずに人生を終われる人は、ある意味幸せ(実は不幸でしょうが・・)ですが、
殆どの人間は、上記の諦観(空しさ)までは、思い至ることが多いでしょう。

問題はその後の生き様です。

私事ですが(正確には家族)、実家の父は今83歳になりますが、
78歳のときに「土地建物」関連の裁定・仲裁をする国家資格に合格し、
地元紙のニュースになりました。 
78歳で国家資格に合格する勉強姿勢に、皆が驚嘆したこともありますが、
むしろ78歳で合格しても、仕事として役に立つわけでもなく、
実際業務をするわけでもないわけで、「合格して、だからどうなんだ?」という
上記ニヒリストにしてみれば 理解不能の行為かも知れません。
でも、今の僕なら多少は理解できるような気がします。
父としては、その瞬間としては、勉強することが一生懸命生きる答えだったのかも知れません。

われわれはちっぽけな人間です。些細な人生です。誰も何も気にしないでしょう。
だからといって、この世に人間として生れ落ちることは、
お釈迦さまの言葉で言えば「人間に生まれる者は爪の上の土の如し」(涅槃経)であり、数百万種類の生物の中で人間に生まれる確率を考えると、
全地球の土の中で、爪の上の土ほどの少ない確率であり、
大変「ありがたい」(有ることが難しい)わけで、ラッキーなことなのです。

一生懸命生きなければもったいないではありませんか。
能動的ニヒリズムで刹那を楽しみましょう。

2013年6月24日

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です