物欲と心、中庸、知足

スマナサーラさんの書物にも頻繁に出てきますし、
小生の人生観、問題意識とも符号するのですが、
経済行為と人間の欲は非常に厄介なものでないだろうかと思います。

人間の欲は制御が利かず無限まで突っ走るが、突っ走れば突っ走るほど
「これは何か違うのではないか」と自らの心が「渇いてくる」のが分かる。
躊躇ためらいながら、分かりながらしかし「突っ走る」しか方法を見出せない。
もがけばもがくほど 泥沼に入っていくような感覚を感じるかも知れない。

物質、富、名誉を追い求める行為と心の充足は 実は反比例の関係であろう。
物質を追い求めるのは心が充足されないと分かっても、では追い求めなさ過ぎるのも極端であり、そこには再度心が「渇いてくる」。
何故だろうか、それも自然の摂理に反して、
「節制しすぎた」「人間らしくない」自分があるからでないだろうか。
絶えず、そのことに「気づき(sati)」を行い、中庸ちゅうよう知足ちそくに努めなさいと、
初期仏教は教えています。

それが出来ることがきっと中庸となり、知足を実行している意味であろう。
そのときに初めて、人間らしい穏やかな心が戻り、心を自分がコントロールしているのであろう。
不動心、平常心とはそのような意味かもしれません。

2007年4月4日

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